まだキリストを信じておられない方へ

イエス・キリストの福音


「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。

わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

 

マタイの福音書 11章28節




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あなたは人生に疲れや重荷、絶望を感じておられませんか。

また、何をやっても本当の満足はない、むなしいと感じておられませんか。

また、自分が一体何のために生きているのかわからない、と思っておられませんか。

 

なぜ、このように感じるのでしょうか。

それは、私たちが、私たち人間を目的をもってお創りになった、本当の神様との交わりを失っているからなのです。

神様は私たちをご自身の愛の対象としてお創りになられましたが、生まれながらの私たちは神様を知らず、無視し、神様から遠く離れて生きています。

その姿はちょうど、海底に沈んだまま時を刻み続けている腕時計に似ています。

持ち主もなく、誰にも見られることなく海底に沈んだまま動き続ける腕時計は、目的もなく、無意味で無価値な存在に等しいものです。

腕時計は持ち主の腕で使われて初めて価値があり、真の存在理由、目的を果たせるのです。

 

様との交わりのない人々も同様です。

神様との交わりがなければ、人間は決して真の生きる目的、満足を見いだせないのです。

私たち人間は本来、神様を尊び、喜び、慕って、神様と共に生きるものとして創られました。

その本来の目的から遠く離れた神なき人生は、働いて、飲んで、食べて、快楽を求めて、寝て、の単調な繰り返しであり、結局むなしさを覚えるだけです。

この世の財産や地位や名誉、快楽などの与える満足も一時的であり、それらをいくら手に入れても真の満足などありません。

だから何をしても結局満たされず、何のために生きているのかも分からず、ただむなしさだけが残るのです。

 

間の心を本当に満たすことができるのは、神様の愛だけです。

神様は人間をそのように創られたのです。

私たちを創られた真の神様のみが、人間に生きる目的と真の満足と喜びを与えることができるのです。

 

 

・・・でも、目に見えない神様は本当におられるのでしょうか?

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「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ人への手紙1章20節)

 

神様のご存在は弁解の余地がないほどに明白です。見えないから神などいない、というのは軽率な判断です。

神様を直接目で見なくても、神様がおられることは誰にでも判るのです。

たとえば、私たち人間のからだは小宇宙と表現されるほど、途方もなく複雑な仕組みをもっています。細胞一つとっても、全自動の工場のような仕組みと働きです。またその中のDNAだけでも複雑な構造と、とてつもない情報量を持っています。

現代の科学技術のすべてを駆使して制作した人型ロボットでさえ、人間と比べるなら単なるおもちゃに過ぎません。

どうか冷静に、人間のからだのような複雑なものがただの偶然によって発生しうるのか、考えてみてください。

人間が作った工場よりも優れた仕組みを持つ細胞が、一体どのようにして出来たでしょうのか?

未だに全貌が把握しきれないような途方もない精巧な仕組みをもったものが、設計者また製作者なしに、どうして偶然に発生することができるでしょうか?偶然できたものに秩序や美しさなどがあるはずがありません。

人間のからだは、偶然に発生し猿から進化したのではなく、神様によって意図的にデザインされ、創造されたものです。

たとえ神様を目で見たことがなくとも、人間のからだや、この秩序に満ちた世界が存在する以上、それを創られた神様のご存在はすべての人に明らかであるのです。

私たちは、この宇宙を設計され、創造された、唯一まことの神様のご存在を認めなければなりません。

たちを創られ、今も生かしておられる神様のご存在を無視してはならないのです。


 

・・・ところが、多くの方々が神様のご存在を認めようともせず、神様に対して罪を犯し続けています。

聖書が語る罪とは何でしょうか?

個々の犯罪や不正行為ももちろん罪ですが、聖書は「罪とは律法に逆らうことなのです。」(ヨハネの手紙第一3章4節)と語っています。この「律法に逆らうこと」と訳されている言葉の原語は「アノミア」であり、「無法」「不法」という意味です。無法とは、法がない、すなわち、支配の拒絶です。

「神などいない、いらない」「絶対的な善悪など存在しない」「自分が自分の神だ」「欲望のままに生きて何が悪い」といったような、「神様を認めない生き方や考え方」が無法であり、罪の根本なのです。

このような考え方によって良心が麻痺し、「見つからなければ何をしても良い」と平気で悪事を行うようになります。


そして聖書は、すべての人が罪人であり、滅びに向かっていると語っています。

「すべての人は、罪を犯した」(ローマ人への手紙3章23節)

生まれながらの人間は、完全に正しい、絶対主権者であられる神を拒絶し、欲望のままに生きています。あなたを創り、今も生かしておられる神様を拒絶し、無視し、憎む行為は恐ろしい罪です。

私たちをお創りになった神様は、必ずその罪をおさばきになり、その行いに応じて激しい怒りを下されます。すべての人は、この罪の故に、死後に恐ろしい刑罰を受けなければならないのです。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」 (へブル人への手紙9章27節)

「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」 (ヨハネの黙示録20章11-15節)

この地獄は聖書が示すとおりに実在します。 そこに入ったならば、二度と出ることは出来ません。罪の中に生きているすべての人は、この永遠の地獄に向かっているのです。



しかし、神様は私たちを愛しあわれみ、私たちをこの罪のさばきと永遠の地獄から救うために、 救い主として神の御子イエス・キリストを地上にお遣わしになりました。

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「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。」 (ヨハネの福音書3章16節)


今から約2000年ほど前、神の御子イエス・キリストは、処女マリヤを通してユダヤ人としてこの世界にお生まれくださいました。

神が人となられたのです。そしてキリストは、ご自身が旧約聖書によって約束されていた救い主であられるということを人々にはっきりと示されましたが、彼を拒んだ人々によって、AD30年に十字架刑に処せられ、死なれました。

実は、その十字架の死の苦しみは、すべての人を救うために味わわれたものであったのです。 罪のない神の御子が、本来私たち罪人が地獄で受けるべきであった刑罰のすべてを、十字架の上で私たちの身代わりに受け、そして血を流し、死んでくださったのです。

そして、キリストは十字架で死なれた後、墓に葬られましたが、神様は全能の御力をもってこの御子イエス・キリストを死者の中から三日目によみがえらせなさいました。 そしてよみがえられたキリストは数多くの弟子たちにご自身を現され、その後、天に昇られ、今も天で生きておられます。



そして神様は今、このキリストを全人類の、唯一の救い主として立てておられます。

今、誰でも、どれほど罪深い人であっても、自分が神様の御前に罪人であることを認め、悔い改めてイエス・キリストを救い主として信じ受け入れるなら、すべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられます。

神様は私たちにこの永遠のいのちを与えるために、ご自身の大切な御子のいのちを犠牲にされました。それほど私たちを愛してくださったのです。  この御子イエス・キリストの十字架において、神様の愛が究極的に表されました。

あなたが心からイエス・キリストを自分の救い主として信じ受け入れるなら、永遠の地獄から救われ、天国に入れられます。



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「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11章28節 )

イエス・キリストは、あなたに真の幸いと満足と平安を与えようと、今日もあなたを招いておられます。

キリストを信じ、神の愛を知れば知るほど、私たちの心は尽きない喜びと満足で満たされます。 また、永遠の天国に入れるという素晴らしい希望、揺るぎない平安も与えられます。

あなたもぜひキリストを信じて救われ、真の幸いと満足と平安を得て下さい。そして日々、神様に心からの礼拝を捧げる者となって下さい。


あなたのご来会を心よりお待ちしております 。